歴史を包む優しい光-薬師寺「ライトダウン」 (2008.7.8 奈良新聞) 七夕の7日、地球の温暖化防止を呼び掛けるNPO法人「奈良ストップ温暖化の会」(遊津隆義理事長、奈良市)が展開しているライトダウンキャンペーンが、同市西ノ京町の薬師寺でエンディングを迎えた。
環境省と連動したイベントで6月20日に開幕、北海道洞爺湖サミットが終わる9日まで、寺社や店舗の照明を消す。県内では、興福寺や東大寺、春日大社などが協力した。
この日は、薬師寺の中門周辺に置かれた約70基のランタンが午後7時半に点灯、朱塗りの中門がほのかな明かりに浮かび上がった。ランタンは同会のオリジナルで、発光ダイオードを利用している。
参加者が「私にできるエコ」を短冊に書いてササに結ぶイベントや環境紙芝居も行われた。
核兵器ゼロの世界へ-走れる喜び平和実感 (2008.7.7 奈良新聞) 「スポーツは平和とともに」をスローガンにした第27回「反核平和マラソン」(関西網の目・反核平和マラソン大阪実行委員会主催)が6日、近畿各地で行われた。王寺町から大阪市の大阪城公園までの奈良コースには、地元の王寺ランナーズのメンバーら約25人の健脚ランナーが参加。核兵器廃絶や戦争反対を訴えて、約35キロのコースを駆けた。
平和でなければスポーツを楽しむことはできないとの視点から、スポーツを通した反核、平和活動として毎年実施。奈良からのコースは今年で8回目になる…
幻想的に漁師町照らす ガラス玉であんどん 和歌山県那智勝浦町で7日夜、地元のまちづくり団体「よみがえれ脇仲倶楽部」が、かつて漁具に使われたガラス玉をあんどんとして利用し、中にともしたロウソクの明かりで夜の漁師町を幻想的に演出した。
二酸化炭素削減のためのライトダウンキャンペーンに合わせて行った。ガラス玉は「ビン玉」と呼び、かつてマグロのはえ縄漁で浮きとして使われていた。大きさは直径12センチから40センチぐらいまでさまざま。穴を開け、中にロウソクやLED(発光ダイオード)の明かりをともした。
勝浦港近くの脇仲地区の約100メートルの通りは、明かりをともした約50個のガラス玉で彩られ、地元の人や観光客らも「きれいだね」と足を止めて見とれた。
同倶楽部の藤原睦展会長は「まちの活性化につなげたいと企画した。今年はお盆や祭りの時などに点灯する予定で、将来的には毎晩つけるようにしたい」と話した。
【暗くなった通りに情緒を醸し出すガラス玉のあんどん(7日、那智勝浦町で)】
天然記念物のフジにキノコ 衰弱が心配 和歌山県上富田町岡の田中神社境内にある県指定天然記念物「オカフジ」の一部にキノコが多数生えており、衰弱が顕著になってきている。地元住民から「このまま枯れたりしないか」などと心配する声が出ており、町教委は対応を検討している。
キノコが生えているのは、境内東側の幹周り80センチほどのオカフジ。根元から1メートル付近で2本に枝分かれしており、一方が腐朽して白いキノコが多数生えている。もう一方には芽生えが見られるものの根元の表面が柔らかくなっており、腐朽が拡大している可能性がある。地元住民によると、キノコは1カ月ほど前から生え始めたという。
キノコ研究家によると、このキノコは食用になるオオヒラタケ(ヒラタケ科)とみられる。広葉樹の生きている木の腐朽部分からしばしば発生することがある。
田中神社の森は面積約8アールで、クスノキの巨木やモッコク、イヌマキなどが生えている。この森にあるフジを南方熊楠が変種オカフジと名付けた。境内には、別に幹周り1メートルのオカフジもある。花は毎年咲かせているが、近年は上部にしか見られなくなった。昨年5月、樹木医に見てもらったときに異変は見つからず、このようなキノコが生えたのも初めてという。
町教委は「今後、県教委文化遺産課と相談しながら調査を進める」と話している。
【オカフジの幹に生えたキノコ(和歌山県上富田町岡で)】紀伊民報
故中村昭夫氏らの作品163点 岡山で写真展岡山の多彩な魅力を写真で伝える「岡山写真界の記録」展
写真家の視点で岡山の文化風土を紹介する「岡山写真界の記録〜古里再発見 写真家のまなざし展」(同実行委主催、岡山市デジタルミュージアム、山陽新聞社共催)が8日、同市駅元町、同ミュージアムで始まった。27日まで。
郷土岡山の風景や伝統文化を撮り続け、今年2月に75歳で他界した中村昭夫氏、文化財の撮影に業績を残した山崎治雄氏(1908―87年)ら先駆者から現役のプロ、アマチュアまで55人の163点を展示。入場料500円。開館時間は午前10時〜午後5時。(14、22日は休館)。山陽新聞
岡山電気軌道の路面電車がビアガーデンに変身路面電車の車内でジョッキ片手に歓談する乗客ら
暮れゆく街並みを肴(さかな)に乾杯―。岡山市内の軌道を走る超低床路面電車「MOMO」が7日、ビアガーデンに“変身”し、乗客が市街地の夜景を楽しみながらのどの渇きを潤した。
同市の市民グループ「路面電車と都市の未来を考える会」(RACDA)が企画し、この日は約30人が乗車。岡山駅を午後7時すぎに出発し、約2時間かけて東山線と清輝橋線の2路線を順番に往復した。山陽新聞
中国地方最大級、福山市Gゴルフ場が27日オープン
全面芝7コース1000人規模大会可能 福山市が同市加茂町北山に整備していた市グラウンド・ゴルフ場が完成した。中国地方最大級の全面芝張り7コースで、1000人規模の大会が可能。27日にオープンする。市は生涯スポーツの場として、市民らに活発な利用を呼び掛けている。
広瀬中(福山市加茂町北山)の西側で、治水目的で建設された四川ダム(同所)の残土処分地を有効活用。面積は約3万平方メートルあり、うち約2万平方メートルに56ホールを配置した。日本グラウンド・ゴルフ協会の認定コースになっている。
事務室や談話室、倉庫などを備えたクラブハウス(木造平屋約230平方メートル)、トイレ、休憩所、約130台分の無料駐車場などを設けている。総事業費約2億円。
27日は午前9時から、竣工(しゅんこう)式典を行った後、オープン記念大会を開催。午後2時から無料開放する。
利用時間は午前9時―午後5時で、年末年始は休み。料金は大学生以上400円、高校生以下100円。年間パスや貸し切り使用、用具の貸し出し(有料)もある。
問い合わせは同課(084―928―1106)。山陽新聞
滝に打たれ厄払い 湯梨浜「不動滝まつり」 滝開きにあわせて善男善女が厄払いする「不動滝まつり」が七日、鳥取県湯梨浜町漆原の不動滝で行われ、厄年を迎えた町内の男性九人が、勢いよく流れ落ちる滝に打たれ、無病息災を願った。
不動滝は、安山岩の岩壁から流れ落ちる落差三十二メートルの二段滝。古くから不動明王を祭り、信仰を集めている。
毎年、七月七日に滝開きが行われる。数え年で四十二歳の男性と三十三歳の女性が滝に打たれ、「厄年」をめでたく躍進する意味の「躍年」に変える。
男性たちは神事の後、地域住民ら約三十人が見守る中、ふんどし姿で滝つぼに入り、落下する滝の水に打たれて身を清めた。今年は例年より水量が多く、男性たちは水の勢いと冷たさに身を震わせていた。
佐藤憲一郎さん(41)=同町松崎=は「身も心も清められた。厄も落ち、今年は運が上がる気がする」と話していた。日本海新聞
英国船渡来の絵発見 江戸末期に松江藩・隠岐国周辺を航行した英国船とみられる絵が、松江藩家臣の子孫が所有していた。当時、外国船が隠岐島周辺を航行した記録はあるが、絵が見つかったのは初めて。離島の警備の様子を伝える新史料として注目される。
絵の所有者は、松江藩に七代にわたって仕えた家臣で、江戸末期は軍用方を務めた雨森(あめのもり)家の子孫、雨森清矩さん(75)=富山市在住。近く松江市に寄贈する約五百点の史料の中にあった。
絵の大きさは縦四十センチ、横五十センチで、表題は「イギリス船並船験之図」。和紙に軍船とともに、英国国旗や英国王室の紋章とみられる王冠とライオン、ユニコーンなどの計十種類の旗が描かれている。
江戸末期の隠岐島周辺での外国船の動向では、一八四九年二月十八日に隠岐国知夫郡三度浦で国籍不明の外国船一隻が来航し、兵士十六人が上陸したとの記録が残る。四日後や翌月に計五隻の外国船も目撃された。
外国船の防御を担当した雨森家の藩士は、同年八月二十六日に隠岐への外国船航行に関連して藩から評価されたとの書状も、今回の史料に含まれていた。警備で隠岐に派遣された藩士に加わっていたとみられる。
元中部大学非常勤講師で今春から松江市歴史資料館整備室に勤務する雨森家研究の第一人者・西島太郎副主任(38)は「異国船の警備に対して情報収集する過程で手に入れたものだろう」と推測する。
船の形状は中国を連想させるが、西島副主任は「当時の日本人は外国船を見たことがない。当時の異国船のイメージから東洋風になったのでは」と指摘した。米提督ペリーが黒船で浦賀沖に来航したのは一八五三年。
雨森家の格式は中級武士の御者頭で、御軍用方奉行、修道館奉行を兼務した。寄贈される雨森文書は大半は未解読で、貴重な史料とみられる。松江市では建設する市歴史資料館で展示する。山陰中央新報
希少な焼き塩つぼ出土 松江城下町遺跡松江市母衣町の松江地方裁判所前庭で実施している松江城下町遺跡の発掘調査で、江戸時代の武家屋敷跡から発見例の少ない焼き塩つぼや、茶わんなどの陶磁器片など約千点の遺物が出土した。用途不明の大小の土坑も見つかっており、松江市教育委員会は、五日午後一時半から現地で見学会を開く。
発掘調査は、県道城山北公園線(大手前通り)の拡幅計画に伴い、二〇〇七年度から実施。調査区域内は、江戸時代の絵図面などから武家屋敷があったとみられる。
同市教委によれば、焼き塩つぼは口の直径、高さとも七センチの大きさ。完全な形では五点出土し、ふたも見つかった。焼き塩を作るのに使われた土器で、武士階級や公家などで用いられ、宴会の卓上にも並べられていたという。
また、土坑は五つ見つかり、最大のもので東西に五・一メートル、南北に三・六メートル、深さ一・八メートル。埋め戻した跡が幾層にも重なっていた。このうち二つは、しめ縄に使われるウラジロが底部から壁にかけて敷き詰められていた。
土坑はごみ穴として使われていた例はあるが、層の形状などから、他の用途に使ったものとみられる、という。山陰中央新報